「虚ろな十字架」もしも人を殺してしまったら、どうやって罪を償えばよいのか?

「虚ろな十字架」(東野 圭吾)を読んだ。

虚ろな十字架(東野 圭吾)

中原道正は十一年前、一人娘の愛美を殺された。当時、愛美は小学二年生。犯人の蛭川は、強盗殺人などで無期懲役の判決を受けていたが、刑務所を仮出所して半年ほどでの犯行だった。
そんな中原のもとに、警視庁捜査一課の佐山が訪れ、五年前に離婚した妻の小夜子が殺されたことを知る。

本の帯に大きく「死刑は無力だ」と書かれているように、死刑制度の是非について問う話かと思って読んだ。
同じ東野圭吾の著書の「さまよう刃 」では、少年法について書かれていた。

「これだけのことをされても、あなたは犯人の少年の更生を考えられますか?」東野圭吾からの問題提起に、読んでいる間中「復讐しろ!」と思わされた。
最後まで息を尽かさぬテンポで一気に読めた。でも待ち構えていた結末は・・・これも東野圭吾から投げかけられた問題だと思った。

さまよう刃 」がおもしろかったので期待して読んだのだが、もっと複雑で、何が正しく、どうすればよいのか、わからなくなった。

この「虚ろな十字架」には、人を殺した人が何人か出てくる。
境遇や立場が違っていたり、殺す理由も様々で、さらに殺す側、殺される側から描かれているので、同じ殺人でも受ける印象が異なることは、イメージできると思う。

でも、殺人は殺人だ。殺したヤツは死刑になればいい。
殺された側からするとそう思うかもしれない。中原もそう思っていたし、読んでいる人もそう思う人が多いのではないかと思う。

しかし、読み進めるうちに、何が正しいのか、よくわからなくなってくる。死刑判決を勝ち取っても、殺された側は何も変わらない。

では、刑務所で何年か過ごせばよいのか?
懲役の効果が薄いことは再犯率の高さからも明らかだ。刑務所で何年か過ごせば真人間になるなんてことが信じられるのか?

では、どうやって罪を償って生きていけばよいのか?

そもそも同じ殺人でも、計画的か、衝動的かで量刑か変わるっておかしくないのか?

そんなことを考えさせながら読んでいたら、後半、大きく話が展開していく。ちょっと苦手な話になって読むのが疲れたが、ミステリー的にはおもしろいと思った。