2006年に買った「邪魅の雫」を2013年に読むということ
発売日に購入した新書版の「邪魅の雫」を読んだ。
もちろん「邪魅の雫」を読んだのは、これが初めてだ。
新書版「邪魅の雫」が発売されたのは2006年だ。
その後、文庫版が出たが、それからすでに3年以上経っている。
なぜ発売日に購入したのに、6年以上経ってから読んだのか?
以前は、発売と同時に読んでいた。
一刻も早く読みたい。
だから、発売と同時に購入し、すぐに読む。
ある時、疑問を感じた。
自分の読みたい時と読む時が必ずしも一致しているわけではない。
つまり、本当は今それほど読みたくないけど、発売されたので読む。逆に、今読みたいのに、次回作が出てないので読めない。
自分が本を選んで読んでいるつもりだったが、これは京極夏彦のペエスにあわせて読まされているのではないか?
私は耐えた。
読まずに耐えた。
猛烈に読みたかったが、読まずに仕舞っておいた。
そのうち、新作が出た----。
これで私の読みたい時に読めるのだ。
「京極先生、早く次回作を出してください」
もう、そんなことを考えなくてもよいのだ。
つまり、今すぐこの本を読んだとしても、もう一冊残っている。
新作を待たずしても、好きなタイミングで読むことができるのだ。
この時、主導権が京極夏彦から私に移ったと思った----。
1990年代後半から2000年代前半にかけてはよかった。
次々と新作が出た。
- 鉄鼠の檻(1996年1月)
- 絡新婦の理(1996年11月)
- 塗仏の宴 宴の支度(1998年3月)
- 塗仏の宴 宴の始末(1998年9月)
- 百鬼夜行―陰(1999年7月)
- 百器徒然袋―雨(1999年11月)
- 今昔続百鬼―雲(2001年11月)
- 陰摩羅鬼の瑕(2003年8月)
- 百器徒然袋―風(2004年7月)
- 邪魅の雫(2006年9月)
2006年に途絶えた----。
それは「邪魅の雫」が読めなくなったということだ。
新作が出ないなら、もういい。
しかし、時期はわからないが「鵼の碑」が刊行予定されている。
私は待った----。
「邪魅の雫」も読んでいないのに、「鵼の碑」を待った----。
2012年3月、待望の百鬼夜行シリーズの新作「百鬼夜行―陽」が出た。
実に5年半待ったことになる。
これで漸く「邪魅の雫」が読める----。
しかし、喜ぶのはまだ早かった。
私はもう一つルールを設けていた。
「一年のスタートは京極夏彦の本から」と決めていた。
つまり、「邪魅の雫」が読めるのは2013年1月1日。
そこから私はさらに9ヵ月待った----。
2013年1月----。
数年ぶりに手にした百鬼夜行シリーズは800ページを超え、ズッシリとした重さだった。
レンガのように分厚くて持ちにくく、カバンの中に入れても存在感があった。
だが、読み始めると、いつものメンツが次から次へと出てきて・・・
と、なるはずだったのだが、時間が経ちすぎていて「この人誰だっけ?」「この前の箱根の事件? それって、あの事件か?」といった感じでかなり忘れていた。
それはまるで20年ぶりに参加した同窓会のようで、懐かしい感じはするのだが、細かいところはサッパリ覚えていなかった。
うろ覚えの記憶でなんとなくイメエジは伝わるのだが、過去の作品で描かれたバックボーンまで伝わることはなく、表面だけでしか楽しめていないかもしれない。
話はそれなりに面白かったが、最後の謎解きである京極堂の憑き物落としにもカタルシスをあまり感じず、「魍魎の匣」の頃のような神がかった印象はなかった。
これは作品のクオリティが落ちたのか、自分が百鬼夜行シリーズに新鮮さを感じなくなってきているのか、時間が空き過ぎて楽しめなくなってきたのか、何が原因かはわからない。
ただ、もしこれが初めて読む京極夏彦の作品なら、今ほどファンにはなっていなかったかもしれない。
今後はわけのわからないルールは撤廃して、いつでも読みたい時に読むことにしようと思った。