映画を観ているようなイメージ「喪失」(モー・ヘイダー/北野 寿美枝)

「喪失」(モー・ヘイダー/北野 寿美枝)を読んだ。

上級者向け? ミステリ初心者には難しかった「二流小説家」」で読んだ「二流小説家」以来、2年ぶりのポケミスだ。

喪失(モー・ヘイダー/北野 寿美枝)

なぜこの本を選んだのか?
ほとんどジャケ買いだ。装丁が格好良く感じたのだ。
さらに、内容もおもしろそうだ。

当初は単純な窃盗と思われたカージャック事件。だが強奪された車の後部座席に乗っていたはずの少女はいっこうに発見されない。捜査の指揮を執るキャフェリー警部の胸中に不安の雲が湧きだしたとき、今回とよく似た手口の事件が過去にも発生していたことが判明した。犯人の狙いは車ではなく、少女だったのか!事件の様相は一変し、捜査に総力が注がれる。だが姿なき犯人は、焦燥にかられる警察に、そして被害者の家族に、次々と卑劣きわまる挑発を...屈指の実力派が、MWA賞最優秀長篇賞の栄冠を射止めた力作。

Amazon.co.jp: 喪失〔ハヤカワ・ミステリ1866〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ): モー・ヘイダー, 北野寿美枝: 本」より

さらに「MWA賞最優秀長篇賞」受賞。ちなみにMWAは「Mystery Writers of America」の略で、アメリカ探偵作家クラブのことだ。
読むしかない。と思って読んだわけなのだが・・・

海外の小説を読むと、よくそうなるのだが、あまり感情移入ができない。日本の小説を読んでいる時は、主人公の気持ちになって、一緒に怒り、一緒に楽しんで読んでいるのだが、海外の小説は第三者の視点で、一歩ひいた場所から眺めていることが多い。

わかりやすく例えると、日本の小説は「主人公そのものになったつもりになっている」のだが、海外の小説は「映画を観ている」ようなイメージだ。

なぜこの差があるのか、主人公の気持ちが「わかるか」「わからないか」にある・・・ような気がする。
例えば、名前について、こんなことが書かれていた。

クレア。すべて、あの女のせい。クレア、クレア。クレアという名前がなににも増してジャニスをいらだたせた。ミレーンとかカイリー、カースティといった若い娘の名前だったら、もっと気が楽だったのに。ストレートパーマをかけたブロンド、"BENCH"の文字が入ったボトム、胸の大きなティーンを想像していたくらいだったのに。

ミレーン、カイリー、カースティが若い娘の名前で、クレアが年配の女性の名前なんて、わからない。同じように地名を聞いても田舎なのか、都会なのか、都会ならどれくらい都会なのか、わからない。もちろん書かれていることも多いが、それが肌で感じられない。

そんなわけで、一歩離れた位置で眺めてしまった。ただ、ストーリーもおもしろいのだが、予想できる範囲のもので、衝撃的なおもしろさには感じなかった。多くの日本人は、MWA賞最優秀長篇賞で「喪失」に破れた、東野 圭吾の「容疑者Xの献身」の方がしっくりくるのではないだろうか?