「仕事をしたつもり」は根が深く、後味が悪かった...

「仕事をしたつもり」(海老原 嗣生)を読みました。

タイトルから「まさにダークサイド『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』」で紹介しました「フリーライダー あなたの隣のただのり社員」のような仕事をしない人の話かと思っていたのですが、違いました。

「仕事をしたつもり」(海老原 嗣生)

1976年と2006年を比べると、家事に費やしていた時間は年々減少し、30年間で約14%減っている。
それに対して、総労働時間は約11%減っている。
1990年代の中盤までは家事労働と同様に減少し続けたが、その後はほとんど減っていない。それどころか従業員規模30名以上の一般社員の例で言えば、1994年と直近のデータを比べると、総労働時間は約0.5%増加している。
この間にパソコンやインターネット、携帯電話が浸透したにもかかわらず、労働時間が減らなかったのは「やらなくてもいい仕事が増えた」だけではないか?
という話でした。

「仕事をしたつもり」とは?

いろんな事例を挙げて、いかに「仕事をしたつもり」になっているか指摘されるわけですが、これが「あるある」の連続で耳が痛い。

例えば、営業部長が部下に対して「この目標を達成したいなら、一日200件、お客様に電話をかけろ!」と言うケース。
この数字、目標にした途端に意味を成さなくなってしまうという。

200件も電話をかければ、受注につながる芽が10件くらいは見つかるだろう。その芽をうまく育てろ!
これが「一日200件」本来の意味なのに、まったくそんなことには気づかず、ただ電話を200件かけるという「形」のみに固執する。

さらに「200件かけたら、少なくとも2件は必ずアポを取って訪問。これを必達にしろ。どんな手段を使ったっていいから」と指示すると、この「数字」だけの指示を聞いた部下は、とにかく一日2件訪問するために、暇をもてあますような総務部長や、話し相手のいない孤独な零細企業社長など「会ってはくれるが、受注などおぼつかない人」ばかりを訪問することになる。

僕は営業担当ではありませんが、僕の職場でも同じような話はいくらでもあり、例を挙げれば枚挙に暇がありません。

これ以外にもいろんな「仕事をしたつもり」が出てきますが、きっと一つや二つ今までよく考えずに「仕事をしたつもり」をやっていたことに気づかされるのではないかと思います。

  • 「量の神話」を突き崩せ
  • 中身より形にこだわる「ハコモノ志向」
  • 大義が引き起こす「本末転倒」
  • 過去の自分までもが加担する「横並び意識」
  • 商売の原則を無視した「過剰サービス」
  • 「安全策」や「奇策」に逃げるな

Don't Feel. Think!

なぜこのような「仕事をしたつもり」が生まれてくるのでしょうか?

  1. 考えることから逃げ(質を考えずに)
  2. 安易に走り(量だけにこだわり)
  3. でも、傍目にはその行為が賞賛される

この3つが重なって、「仕事をしたつもり」へのサイクルが生まれているのです。

では、どうすればよいのか?

それは「目的→成果→手段」の流れで考える。
最終的な「目的」(売り上げ、契約、商品化など)
→それにつながる中間的な「成果」
→その成果を得るための「手段」
という流れを考えることが大事。

その行動をとることによって得られる中間成果は、求める最終目的につながっているのか、否か?
本末転倒な状況に陥らないためには、この部分をよく考える必要がある。

ここまでの話は「手段が目的になってはいけない」など、よく耳にする話だと思うのですが、この「仕事をしたつもり」の根が深いと感じたのは「定着のプロセス」を読んだ時でした。

「仕事をしたつもり」は甘い蜜

「仕事をしたつもり」が定着すると、何も考えずみんなと同じように「仕事をしたつもり」していれば、楽で、失敗してもとがめられることはなく、仕事として認められるし、お金もたくさん貰えるし、頑張っているように思わせることもできるのです。

逆に「仕事をしたつもり」をやめて効率的に働くと、残業代が減るとか、評価が下がるといったかたちで、たいていの場合、本人にとってマイナスになってしまうのです。
「本物追求」にはインセンティブが何もない。
だから人は保身的に「仕事をしたつもり」を繰り返してしまうのです。

「仕事をしたつもり」は安易で簡単であり、見せかけのインセンティブもあるので、そこから抜け出すのは難しい。
でも、そこに安住すれば、本当の意味でつまらない人生となっていく。

最後に

「仕事をしたつもり」から抜け出したい!

最後に著者がおすすめしていた方法が予想外でした。

まず、「仕事をしたつもり」を半分にする(ゼロにはできっこないから)。
残りの半分は、「仕事をしたフリ」をする。
「つもり」と「フリ」の違いは、前者は無駄な仕事を無駄と気づかず、一生懸命行うことであり、後者は、無駄と気づいて手を抜き、周囲に対して「しているように」ポーズをとり、その実、さっさと仕事を終えることです。
そもそもが無駄な行為なのだから、フリをしたところで、それほど成果は落ちません。
これで浮いた時間を、半分は余暇に費やします。たとえば会社近くのスタバでコーヒーでも飲んで、疲れを癒すのです。
そして、残りの半分の時間を、真剣に考えることに費やす。

結局、自分の考え方だけ変えてもダメなのです。
自分だけが「仕事をしたつもり」をやめると、たいていの場合、自分にとってマイナスになってしまうのです。
「仕事をしたつもり」をゼロにすることができないので、割り切って半分は仕事をしたフリをして、その時間で「自分のための時間」を費やす。

理想だけを追い求めてもいけないことはわかります。妥協も必要なこともわかります。現実に目をやることも必要だということもわかります。
でも、でも、この終わり方は「猿の惑星」を見た時と同じくらい後味が悪く感じました。

あなたはこれから、どんな1日を過ごしていきますか?

この最後の1ページに書かれたことばを読んで「自分もこのままでよいのか?」「これからどうすればよいか?」一度考えてみようと思います。

そんなことも含めて、この本はできるだけ多くの人に読んでもらいたいと思いました。